2015年8月2日日曜日

腹の減る男

 その男は仕事もしないで毎日寝てばかりいるのに、いつも目覚めると、
「腹へった、腹へった」
と母親にいうのだった。それが、1日に3回も4回もだからおかしなことだ。
「これはきっと病気だな」
  母親は心配して医者を呼びにいった。
医者がやってくると、さっそく診察がはじまった。
「お腹がへるようになったのはいつからなんだ」
「ふた月くらい前から」
「どこかへ出かけることはあるのか」
「いいや、出かけることはない」
「家の中で仕事をすることは」
「仕事なんてやったことがない」
 医者は考え込んだ。
「ふしぎなこともあるもんだ。どこにも行かず、仕事もしないのにどうしてお腹がへるんだろう」
「じゃ、お腹がへるような夢でもみるのかい」
  男は、思い当たることがあるのか、しばらく考えてからいいにくそうにいった。
「ああ、いつも見てる」
「じゃ、その夢を話してくれ」
  男は、話しはじめた。
「ある日のことだ。おいらが広い原っぱの道を歩いていると、どこからかいいにおいがしてきた。そちらのほうへ歩いていくと、樫の木のそばに一軒のパン屋さんがあった。その店には、おばあさんがひとりでパンを焼いていたんだ。お金がないので、入口の棚の上に積まれたパンのみみをだまって食べてたら、お店の中から大きなどなり声が聞こえてきかとおもうと、まわりの景色がすぐに暗くなり、おいらは深い森の中にいたんだ。お店からでてきたのは、黒い帽子と黒い服を身に着けたワシ鼻の怖い顔をしたおばあさんだった」
「やい、あんた。かってに店のものを食べちゃこまるよ。罰として、しばらくここでこき使ってやるからね」
「そういっておいらをお店の地下室へ閉じ込めたんだ。そして、毎日決まった時間になると、そのおばあさんがやってきて、今日の仕事をいいつけて厨房へおいらを連れて行く。その仕事のきついことといったらなかった。毎日、パン粉を練らされてパンを焼くんだが、焼き具合が悪いとがみがみと文句をいわれる。それにパンを焼く多さにも驚いた。あとで知ったんだが、この森に住む悪魔たちが買いに来るパンだった。
 汗だくの仕事が終わると、こんどは後片付けだ。ちりひとつでも落ちてたらやり直しをさせられる。夜遅くまでかかってすべての仕事が終わると、また地下室へいれられる。食事なんてくれない。コップ一杯の水だけなんだ。このふた月間、おいらはそんな夢を見ていつも目が覚めるんだ」
  男のはなしを聞いて医者はおどろいたが、すぐに治療の方法を思いついた。
「あんたの病気はすぐに治るよ。簡単な方法だ。すぐに仕事を見つけて働くことだ。そうパン屋さんがいい。あんたはパン屋の仕事がすっかり身についている。人を雇って一緒に楽しく働いていれば、もうそんな夢を見ることもなくなる。夜もぐっすり寝られるよ」
  医者は言い終わると、さっさと帰っていった。
 男は、医者の勧めもあって、町へ行って小さなパン屋さんを開店した。はじめは、お客さんもあまりこなかったが、男が焼くパンがおいしいという噂が流れてからは、日に日にあちこちから人がやって来るようになった。収入もたくさん入ってくるようになって、男の暮らしも安定した。
 そんなある日のことだった。お店に、白い翼と頭に銀色のリングをのせたかわいいひとりの天使がやってきた。
「大きなパンを焼いてもらいたいんです」
「どれくらいの、大きさですか」
「あの山の上に乗るくらいのパンです」
 とつぜん、そんなことをいわれて男は、
「そんなの無理ですよ、だってひとりではとても手におえません」
「お仲間がいますよ」
「いつからですか。準備もありますから」
「明日の朝、あの山の頂上へ来て下さい」
 そういって、天使は代金を置いて帰って行った。
 翌朝、男は指示された山のてっぺんへ登っていくと、たくさんの仲間のパン屋さんが来ていた。
「あんたも呼ばれたのかい。光栄なことだよ。この仕事は腕のいいパン職人しかやらせてもらえないんだから」
 そんなはなしをしていると、きのうの天使が姿を現した。
「では、みなさんお願いします。すてきなロールパンを作ってください。材料はまわりにいくらでもありますから」
そういって、そばに浮かんでいる雲を指さした。
パン屋さんたちは、さっそく、山が隠れるくらいの大きなロールパンを作りはじめた。
まわりの雲をかき集めてくると、それを何時間もかかって練り上げてから、大きなオーブンの中に入れて、じっくりと焼きはじめた。でも、たいへんな作業だから、できあがるまで何日もかかった。
 一日の作業が終わると、みんなすっかりお腹をすかせて家に帰って行く。そして翌日にはまた山にやってきて、パン作りの仕事をはじめる。
男も、家に帰ってくると夕食をとってすぐに寝てしまう。
ときどき夢の中で、自分たちが作った大きなロールパンが空に浮かんでいる情景を見たりした。
 ある日、パン屋さんたちが作った大きなロールパンがみごとに空の上に浮かびあがった。その姿は、遠くの町からでも見ることができた。
「ありがとう、みなさん、りっぱな美術品の完成です」
 天使も満足していった。
私たちはときどき、風の強く吹く日に、山の上に、ロールパンのような形をした雲を見かけることがありますが、あれは、天使が腕のいいパン屋さんたちを集めて作らせた芸術品なのです。形もみごとですが、味もたいへんおいしいので、鳥たちがついばんだりします。空の展示がおわると、パン屋さんたちもごちそうになりますから、あっというまに消えてしまいます。するとまたパン屋さんたちが呼ばれて新しいロールパンを作るのです。
作業は大変ですが、空にみごとに浮かんだロールパンを見ながら、パン屋さんたちはいつも自分たちの仕事に満足します。男も呼ばれますから、同じように満足します。そして一日の仕事が無事に終わると、男もお腹をすかせて家に帰ってくるので、夕食もお腹いっぱい食べて寝ます。ですからもう以前のように、「腹へった」「腹へった」という夢も見なくなりました。




(文芸同人誌「青い花第24集」所収)


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